
青森市立浦町中学校 校長 木村 直彦
自分の中学時代を語るのは恥ずかしい。では語るのが恥ずかしい生活をしていたのかというと、そうでもないようにも思える。
浦町中学校は、戦後の第一次ベビーブームといわれる世代の子どもが教室不足、学校不足を引き起こし新設された。一クラスに55名から56名もの生徒がいた。全くの新設で先輩もなく、1学年8学級、440名ほどでスタートしたと記憶している。
私の中学時代は、劣等生であった。勉強もできない、運動はまあまあ、絵が上手いとか、歌が上手いといった特に目立った才能もない。もちろんリーダー性があったわけでもない。どちらかといえば世話の焼ける生徒であったと思う。私の記憶に間違いがなければ、先生にとっては好ましい生徒ではなかったようだ。先生の言ったことには理屈で返し、変に強情でなかなか素直ではなかったからである。
勉強は、本当にできなかった。特に、数学は駄目だった。このままではいけないと思い数学を本気で勉強したのは、2年生の2学期からである。小学校から駄目な数学をある程度できるようになるには大変苦労した。
そういう私ではあったが、友達には恵まれていた。仲の良い仲間が、いくつかあった。勉強ができるグループ。勉強ができない、いわゆる不良グループ。勉強の出来具合も運動能力もバラバラなグループなど。そのどれにも所属しており、そのどれもが楽しかった。誰にでも愛想がよいとは言えない性格ではあったが、なんとなく大切にしてもらえた。
私の学級には席替えの委員があった。公のものであったのかどうか定かではないが、私はこの委員をしており、この権限を利用して噂のカップルを隣同士の席にしてあげたり、ちょくちょく席替えをしていた。学級全員でサイクリングに行く計画、実行の中心の一人でもあり、それなりに学級には存在感があったのではないかと思っている。
中学3年生の頃には、大学には進学したいと思っていた。これは、母親の影響だと思う。私の住居は今も変わらず中央町(当時は北片岡町)であるが、私の中学時代に同じ町内で大学に進学したという話は聞いたことがない。教師になりたいという夢もあった。友達の影響もあったかと記憶している。いずれにしても、大学へは進学したいという気持ちはあった。ただ、今思うと大学に進学したいと思っていたのにはたいした理由はなかったのかもしれない。母親に言われていたからか、或いは、仲間の誰かが言った大学進学希望をそのままに受け止めて自分もと思ったのか、その程度のことではあったと思う。教師になりたいとはっきり思うようになったのは、高校時代のことであるので、それも大学進学の動機としては希薄である。
冒頭、私は、自分の中学時代を語るのは恥ずかしい、と書いた。しかし、中学時代が楽しくなかったわけではない。むしろ楽しかった。劣等生ではあったが、学校は嫌いではあったが、楽しくはあった。それは、中学時代は、心が自由であったからだ。今よりももっともっと学校の規制が強かったにもかかわらず、心は自由であった。
その自由をくれたのは、友達であり、学校の生活であった。宿題も多かったが、宿題をやっていかなければ叱られればよい。悪いことをすれば、厳しく罰せられればよい。だから先生に叱られたからといっても、なんということはない。友達と喧嘩したからといって、自分のことだから、親にも先生にも叱られはするが、それで終わりだ。だから先生や親、大人には、泣き言を言わない。理不尽なこともあったと思うが、先生や親、大人に泣き言を言わない分だけ自由だった。だから、友達といる学校は楽しかったのである。
過ぎ去ったものが美化されているのかもしれない。しかし、少なくとも、苦く痛みを伴った中学時代として記憶されていないのは、とても幸せである。
浦町中学校の全ての生徒も、幸せな中学時代を送ってほしいものである。
この3月に勇退される木村校長に、浦町中学校第1回生である御自分の中学時代を振り返っていただいた。
校長先生、3年間お疲れ様でした。そして本当にありがとうございました。